1.人材版伊藤レポートの狙い
2020年9月に経済産業省より「持続的な企業価値向上と人的資本に関する研究会報告」(「人材版伊藤レポート」)が発表されました。取り纏め座長の伊藤邦雄一橋大学CFO教育センター長はレポートの中で、「企業価値の主要な決定因子が有形固定資産から無形固定資産に移行し無形固定資産の中でも人的資本の価値創造は企業価値創造の中核に位置する」と述べ人的資本経営へのシフトを強く求めています。
産業構造が大きく変容した現在においては製造業や装置産業に象徴される設備投資(有形固定資産)が競争優位を生むわけではなく、社員(人的資本)の工夫・創意・知恵・知見・チーム力・知財等(無形固定資産)が企業価値創造に直結するといえます。更に、ご存知のとおり少子高齢化により生産年齢人口(15~64歳)は年々減少し2070年には約3000万人減少すると予測されています。人的生産性の向上は喫緊の課題であり、中堅・中小企業において人手不足問題は大きな経営課題となっています。
このような経営環境において持続的に企業成長するためには、ヒトを経営資源(コスト:Human Resource)としてではなく投資としての資本(Human Capital)として戦略的に投資することを求めています。実務的に簡潔にいえば、人材の採用 → 教育 → 定着 → 活性化 → 企業価値の創造の流れを経営戦略から連動させて再構築することを求めているといえます。
つまり、人的資本経営は、
- 経営戦略の見直しを経営者自ら行い、
- 戦略実行のための仕事を明確にし、
- 必要な人材像を明確にした上で教育投資を継続的に行い、
- 目標達成のための具体的な行動計画を策定し、
- 働きやすい職場環境を整備し、
- 獲得すべき価値創造につなげる。
ことを求めているといえます。
2. 人材版伊藤レポートの重要ポイント
「人材版伊藤レポート」において、変革のポイントを「6つの要素」で整理し、更に人材戦略に盛り込むポイントを「3つの視点と5つの共通要素」で整理しています。
(1)6つの変革要素
6つの変革要素 . | 今まで | これから |
人材マネジメントの目的 | 「人的資源管理」 (Human Resource) オペレーション志向 「投資」ではなく「コスト」 | 「人的資本・価値創造」 (Human Capital) 人的資本の活用・成長、クリエーション志向、 「投資」であり効果を見える化 |
アクション | 「人事施策」 人事諸制度の運用・改善が目的 経営戦略と連動していない | 「人材戦略」 持続的価値向上が目的 経営戦略からの落し込み |
イニシアチブ | 「人事部」 人材関係は人事部門任せ 経営戦略との紐づけは意識されず | 「経営陣・取締役会」 経営陣のイニシアチブ 経営戦略との紐づけ、取締役会がモニタリング |
ベクトル・方向性 | 「内向き」 雇用コミュニティの同質性が高く人事は囲い込み型 | 「積極対話」 人材戦略は価値創造のストーリー 投資家・従業員に積極的に発信・対話 |
個と組織の関係性 | 「相互依存」 企業は囲い込み個人も依存 硬直的な文化になりイノベーションが生まれにくい | 「個の自律・活性化」 互いに選び合い、共に成長 多様な経験を取り込みイノベーションにつなげる |
雇用コミュニティ | 「囲い込み型」 終身雇用や年功序列により囲い込み型コミュニティに | 「選び選ばれる関係」 専門性を土台にした多様でオープンなコミュニティに |
(2)3つの視点と5つの共通要素
①3つの視点
視点1. 経営戦略と 人材戦略の連動 | 経営戦略・ビジネスモデルと表裏一体で、その実現を支える人材戦略を策定・実行することが必要不可欠。経営戦略上、重要な人材アジェンダについて経営戦略とのつながりを意識しながら、具体的な戦略・アクション・KPIを考えることが有効。 |
視点2. As is – To be ギャップの定量把握 | 自社の経営戦略上重要となる人材アジェンダを特定した上で、アジェンダごとにKPIを用いて目指すべき姿(To be)の設定と現在の姿(As-is)の把握を行い、そのギャップを定量的に把握する。また、人材戦略の策定段階だけでなく実行段階においてもAs is – To beギャップを定量的に把握しPDCAサイクルを確保する。人的資本が競争力の源泉となる時代においては、経営戦略との連動という観点で人的資本・人材戦略を定量的に把握・評価しステークホルダーに発信・開示することが求められる。 |
視点3. 企業文化への 定着 | 企業理念、企業の存在意義(パーパス)や持続的企業価値の向上につながる企業文化を定義し企業文化への定着に向けて取り組むことが必要。企業文化は、人材戦略の実行プロセスを通じて醸成されるものであり、いわば人材戦略のアウトカムともいえることから、人材戦略を策定する段階から目指す企業文化を見据えることが重要。 |
②5つの共通要素
要素1. 動的な 人材ポートフォリオ | 現時点の人材やスキルを起点とするのではなく、現在の経営戦略の実現、新たなビジネスモデルへの対応という将来的な目標からバックキャストする形で必要となる人材要件を定義し、その要件を充たす人材を獲得・育成することが求められる。目指す人材ポートフォリオとのギャップを適時に把握するためにも、HRテクノロジー等を活用して現在の人材ポートフォリオの状況を把握しデータを蓄積することが望ましい。 |
要素2. 知・経験の ダイバシティ& インクルージョン | 中長期的な企業価値向上のためには、非連続的なイノベーションを生み出すことが重要であり、その原動力となるのは多様な個人の掛け合わせである。このため経験や感性、価値観、専門性といった知と経験のダイバシティに積極的に取組み具体化していくことが必要となる。女性や外国人といった属性に加え、他業界での経験等のキャリアパス、専門分野の多様性を取り組むことが重要となる。実際に多様な経験や専門性、価値観を取り込み具体化するプロセスも重要である。こうしたプロセスにもKPIを設定するなどして「知・経験のダイバシティ&インクルージョン」を実現させる必要がある。 |
要素3. リスキル・ 学び直し | 個人のリスキル・スキルシフトの促進、専門性の向上が必要となる。個人が自らのキャリアを見据え、学び直しに取り組むことができるよう企業としても個人の自律的なキャリア構築を支援することが重要である。ITリテラシーやスキルの向上は必須になる。同時に、ITやAIでは代替されない人間らしさや付加価値の創出につながる創造性やデザインなどのスキルもより一層重要となる。 |
要素4. 従業員エンゲージメント | 従業員がやりがいや働きがいを感じ、主体的に業務に取り組むことができる環境を創り上げることが必要となる。このためには、企業と個人が対等な関係の下で一体となって企業成長の方向性や組織目標の達成を多様な個人の成長・ベクトルを一致させていくことが重要である。これは持続的価値向上という経営の循環の観点からも不可欠な要素である。 |
要素5. 時間や場所にとらわれない働き方 | いつでも・どこでも・安全かつ安心して働くことができる環境を平時から整えることが事業継続やレジリエンスの観点からも必要となる。一方で、同じ時間や空間で働いていない多様な個人を束ねていくためには、これまで以上にマネージャー層のリーダーシップ、マネジメントスキルが不可欠な要素となる。特に、業務プロセス自体が見えにくくなる中で、タスクのアサインの仕方や育成・評価なども適合させていく必要があり、こうしたマネジメントに対応できるマネージャー育成や支援が鍵となる。リモートワークでも業務が完結できるよう業務プロセスの見直しやコミュニケーションの在り方への対応が求められる。 |
次回は、「人材版伊藤レポート2.0」(2022年)をもとに上記、(2)3つの視点と5つの共通要素の実務対応ポイントを解説します。